7/17 説教原稿(本日、説教動画は投稿しません)

2022年7月17日(日) 主日礼拝 

「ゲッセマネの祈り~御心のままに」(マルコ14:32~42)

参照 2018年9月9日(日)「ゲッセマネの祈り・本物の祈り」(マルコ14:32~42)

はじめに

主の御名を賛美します。

梅雨の戻りとか、帰り梅雨などという言葉があります。ちょっと風流にも響くのですが、現実の天気としては、なかなかに激しいものがあります。線状降水帯なる自然現象が毎年のように、全国各地で発生するようになり、集中豪雨が頻発しています。我らが東山キリスト教会教会堂も、その影響を受けているものの持ちこたえてくれています。58年間のさまざまな嵐を乗り越えてきた教会堂です。大切に使いつつ、次の新しい会堂への夢も、少しずつ膨らませて行けたらと主に願っております。

 コロナ感染拡大第7波が、首都圏を中心に起こりつつあります。東海圏でも人口密度の多い愛知県、そして、名古屋市の場合も、他人事ではなく、県の感染者数7000人超と伝えられています。気を付けても、気をつけすぎることはないわけで、私たちも日常生活において、また、教会生活において、密を避けつつ、活動を継続ということを心に置きながら、お互いの命と健康に気を付けてまいりましょう。

 

本 文

 今日は、ゲッセマネの祈りに共に聴いてまいりましょう。祈りとは何か。ここには、イエス様の祈りがあり、本物の祈りが記されております。

  ゲッセマネの祈りは、私たちにとってどのようなものでしょうか。「キリスト者にとってゲッセマネの園は、エデンの園を逆転したもの」(D.R.A.ヘア著、マタイによる福音書、現代聖書注解)と言われています。私たちクリスチャンにとっては、理想的な楽園、天国のようなエデンの園とは、まったく正反対に映るもの。荒野の厳しい祈りの場であるゲッセマネ。オリーブ油を絞るようにして、祈りが絞り出される場。苦しみの象徴のようでもあります。しかし、この祈りが、十字架のイエス様の贖いの業と、切っても切れない関係があり、すべての人の罪を背負う覚悟と、罪ゆるされるための執り成しの祈りがささげられているので、痛みの記憶のようで、救いの御業の出来事の象徴ともいえます。

エデンの園でアダムとエバは罪を犯しました。一人の人アダムの罪、不従順の罪によって全人類に入りこんだ罪が、一人の人イエス、救い主イエス様の献身と従順によって、すべての人の罪赦されることとなった(ローマ5:19参照)恵みを、ゲッセマネの祈りに見ることが出来ます。

1 苦しみの祈り(32~36節)

32節

 主イエスは、弟子たちと共にゲッセマネにやって来ました。ゲッセマネとは、「油をしぼる場所」という意味があります。ルカではオリーブ山とされています。オリーブの木々がたくさん生えた場所で、オリーブ油を搾り出す場所であったのでしょう。この油しぼる場所が選ばれているのは、意味のあることだと思われます。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカ22:44)とあるように、ゲッセマネの祈りは、血の汗が絞り出されるような主の祈りです。

33節

 主イエスは祈られる時、「ひとり人里離れた所」(マタイ14:13)、「祈るためにひとり山にお登りになった。」(14:23)とあるように、お一人で、静かな場所にこもって祈られることが多かったようです。普段、どんな祈りを献げられたのか、どんなご様子だったのか記されていません。ここでは、弟子たちから離れることなく、主イエスの変貌物語(マタイ17:1以下)の時にも連れて行かれたペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを、ごく身近に連れて祈られました。

34節

 主イエスは、ご自分の悲しみ、不安、恐れを隠すことなく、むしろ露わにして祈ります。率直にそのことを3人の弟子に明らかにして、一緒に祈ってくれとまで口にされます。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れずに、目を覚ましていなさい。」

3人の弟子はどんなことを感じ取ったのでしょう。私たちがこの箇所を読みますと、戸惑いと、驚きを感じます。主イエスが、雄々しく、何の恐れも不安もなく十字架の死に立ち向かわれたのではなく、弱々しく、何の尊厳も威光も感じられないような姿を、露わにされていることに、戸惑いを覚えます。このお姿は、変貌物語の神々しさ、威光、尊厳に満ちたお姿とは、非常に対照的です。

35節

 主イエスは、少し進んで行って、うつ伏せになり、祈られます。「杯」とは、旧約では神の怒り、新約では死の運命、殉教の死などの意味があります。主イエスは、「アッバ父よ」(マルコ)、「わたしの父よ」と苦しみ叫びながら、この死の苦しみから逃れ避けてほしいと願われます。弱さをさらけ出したような姿でありながら、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と続けて祈られます。この祈りは、主イエスの人間としての弱さと、葛藤を私たちの前に露わにさらけ出しています。このお姿を、「なんだ。イエスは、弱いただの人間に過ぎないではないか。」と見る人もいるかもしれません。

 しかし、私たちは一見戸惑いを与えるこの主イエスの弱々しさに、かえって主イエスの信仰の深さを見ることが出来ます。主イエスは、神の子として、ご自分に与えられた権限を用いて、十字架の苦難を味わうことなく、雄々しく、輝かしいやり方でこの世の権力を滅ぼし、罪人を裁き、弱い者を救うこともお出来になったはずです。しかし、そのような自分の力を誇示することなく、主イエスは、無力をさらけ出し、ひたすらに、神様の御心がなされることを願い求めます。無力な姿、弱さは、私たちに信仰において大切なことを明らかにしています。自らの願い、願望を神様にぶつけるような祈り、信仰ではなく、自らの願いを捨ててまでも、ひたすらに神様の御心を求める従順さことが、私たちに信仰において大切だという事が、ここに明らかにされています。

「アッバ父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り除けてください。しかし、私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように。」

2 心は燃えていても、肉体は弱いという現実(37~42節)

37節

 弟子たちは、疲れと悲しみのあまり眠り込んでいました。その姿を御覧になって、主イエスは、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。」と語られます。眠り込む弟子たちの姿は、主イエスに大きな失望と落胆を与えた事でしょう。誘惑とは、「試み」とも訳される言葉です。弟子たちは試みに遭い、眠りの誘惑に負けてしまいました。肉体(サルクス)とは、肉の弱さを持つ人間そのものを表し、心(プネウマ)は、霊を表す言葉が使われています。ペトロをはじめとする弟子たちは、主イエスが十字架にかけられるようになる時には一緒にかけられて死ぬ覚悟を表明しています。肉の思いで、自分たちの決意を表しましたが、挫折します。一方、主イエスは肉の弱さをさらけ出して、霊にゆだねることによって、人間の無力さ、弱さを克服されました。このことは、ずいぶん対照的で、私たちの心に残ります。

 

3 「もうこれでいい」(41~42節)

41節以降

 主イエスは、3度泣き叫ぶような祈り(ヘブライ5:7)を繰り返された後、いよいよ裏切られ逮捕される場面へと向かわれます。3度の祈りは、ペトロの裏切りの箇所を思い起こさせられます。ゲッセマネの祈りでは、弟子たちの弱さ、人間の弱さ、絶望、苦難が露わにされます。同時に、大変な苦しみを乗り越えて、神様の御心を求め続ける主イエスの信仰の勝利を目の当たりにする箇所です。また、これ程までに苦しまれながらも、神様の御心に従って、私たち人間を救う道を開いてくださった主イエスの深い愛に出会う箇所でもあります。

「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される(裏切られる)。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 イエス様は、眠り込む弱さを抱える弟子たちや、直接裏切りに加担する弟子を責め立てておられるのではありません。裏切りと弱さ、罪の先にある神様の救いの出来事へと、まっすぐに進んでいかれるのであります。十字架の死の先にある復活の命の希望へと踏み出されていく姿に、私たちは希望を与えられます。私たちは罪ゆるされ、救われて、救いを約束された者として、新しい使命に生かされている存在だということであります。

 祈りましょう。

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