12/17(日) 説教原稿(動画はありません)

2023/12/22

「主イエスよ、救って下さい」(ヨハネによる福音書3章16節~18節)

 2023年12月17日 合同主日礼拝(金沢・東山教会)

聖書本文

16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 

はじめに

金沢教会の皆さま、そして、東山教会の皆さま、おはようございます!

今朝は、初めての合同礼拝をささげています。zoomを用いて、愛知県と石川県を結び、礼拝を同時刻にささげることが出来ている事。コロナをきっかけとして、人と人とがいかにつながることが出来るのか、さまざまな形で模索される中、オンラインが急速に普及することとなりました。

ますますコミュニケーションが豊かになるだろう、と思われた矢先、ウクライナとロシアの間の戦争が始まりました。また、続いて、イスラエルのガザ地区でもイスラエルからのジェノサイドとも言えるような激しい攻撃が続いています。

イスラエルの地、それは、聖書の歴史の刻まれている歴史。私たちの信じる救い主イエス・キリストがお生まれになられた土地。同時に、長年紛争の絶えない地域でもあります。

来週はクリスマスです。私たちは今、私たちにとっての希望は、どこにあるのだろうか。わたしたちは、誰と共に生きているのだろうか。深く考える時を過ごしています。

金沢教会では、来週のクリスマス礼拝で、ひとりの方がバプテスマを受けられる予定だと伺っています。東山教会でも、ひとりの方が、転入会を迎えられる予定です。それぞれの教会に、クリスマスに、神様の喜びが与えられています。なんとうれしいことでしょう。

さて、今日の箇所は、「小さな福音書」とか、「小さな聖書」と呼ばれているそうです。

なぜ、イエス・キリストは、この世に来られたのか、ということを豊かに証しする箇所になっています。ベツレヘムでお生まれになり、ナザレで成長し、30歳ごろになってから、神の国運動を始められた主イエス。最期に、エルサレムで十字架刑に処せられたのは、なぜか。

なぜ、どうして、という疑問に対して、ただ一言で、このヨハネ福音書は答えています。その答えとは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」からであります。愛するとは、アガペーの愛。報いを求めず、ひたすら与え尽くすほどの愛。自分の大切な子を十字架にささげるほどの愛をもって、この世、世界を愛されたというのです。

この世とは、言い換えれば、この世界の事。さらに言えば、この世界を形作っている私たち一人ひとりのことです。

世界を見てみれば、戦争絶えない世界。日本国内を見ても、政治家のお金をめぐる問題で、政治の世界が揺れ動いています。環境問題も、私たちの世界の抱える課題です。今年は観測史上もっとも暑かった一年だと言われます。地球温暖化が原因ではないかと言われています。数えれてみれば、課題だらけ、問題だらけにも思えるようなこの世界。

この世界を、神様が愛しておられる。それはちょうど、十字架にかけられる前のイエス・キリストが、弟子たちのことを、裏切りのユダの事も含めて、愛し愛し抜かれたほどに愛されたように、神様が、この世界の事を愛し抜かれている。

この世界に生きる者、生きとし生けるものが、決して滅びることがないようにと、なんとかその解決を願われた最終的な切り札。それが、イエス・キリストなのだと聖書は語ります。

イエス・キリストは、2000年以上前の時、まさに来るべくして、この世界に生まれて下さったのであります。

私は、1991年のクリスマス礼拝で、今は天に召された玉木功牧師から、東山教会でバプテスマを受けて、クリスチャンとなりました。その教会で、今、牧師として歩んでいること。これはただただ神様の深い憐み。加えて言えば、教会員の方々の忍耐とも言えるかもしれません。

クリスチャンになったのは、大学2年生の時の事です。長くなるので、端折って言えば、

愛を求め、愛に飢え渇き、心の内で人の事を裁きまくっていた若き日の私が、自分がいかに愛が薄い人間であるのか、優しさに欠ける人間であるのか、自己中心的な人間であるのかを知った時、初めて、十字架の死と復活の出来事が、他の誰でもなく、この私の為の出来事だとはっきりと悟ったから、私は、クリスチャンになることが出来ました。

夏の終わり、これはちょうど、私の初恋が終わった時のこと。秋の夜長に、聖書を読んでいました。同じ年の春から東山教会に通いはじめ、数か月が経過していました。私は幼稚園が静岡バプテスト幼稚園で、聖書の話を聞いて育ちました。ノン・クリスチャンの家庭に育ちましたが、ミッションスクールで、中高・そして、大学と通っていることもあって、聖書の事を知っているつもりでした。「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにする為である。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」以下、マタイ福音書の1章から読み始めて、7章の箇所に至った時、裁くな、の箇所を読んだ時、頭をガツンと殴られたような衝撃が走りました。私は、まじめで、いい人で、親切な人として生きているつもりで、実は、心の内で人を裁きまくっていた人間だったことが、はっきりと分かった瞬間。涙がとめどもなく流れおちてきました。後に、これが私の聖霊体験だったのだと分かりました。

それまでは、神様の存在は信じていました。イエス・キリストが歴史上、実在した人物だとも信じてました。しかし、イエス・キリストの十字架の事が分かりませんでした。人々の罪をゆるすということがよく分かりません。まして、自分に罪があること、自分を救うために、十字架にかかってくださったなど、自分には縁遠いことのように感じていました。ところが、この時は異なりました。この私の為に、イエス・キリストが十字架にかかって下さったのだと、はっきりと信じることが出来ました。私が十字架につけたのだ。何ということをしてしまったのだとも感じました。その時は、救いの喜びよりも、自分の罪の自覚が大きかったかもしれません。

クリスチャンになりたい。心からそう願いました。しかし、すぐに玉木牧師や教会員の方に告白したわけではありませんでした。大学の吹奏楽団に入っていた私は、フルートを吹いていました。秋口に入り、12月のコンサートに向けて、練習が忙しくなってきました。土曜、日曜も、練習日になりました。緑の公衆電話で、テレホンカードを挿入し、教会に電話をしました。次の日曜日は、練習のためにお休みします、という電話するつもりで。

玉木牧師のお連れ合いの民子さんが電話に出られました。直接牧師にお伝えしたいと思い、後から又かけなおします。お伝えしました。次に電話をかけた時、今度は牧師が出られました。今度の日曜日、お休みしますと言うつもりが、先生、僕、クリスチャンになりたいのですと、電話口で語っていました。まるで、誰かに背中を押されたようでした。後から考えれば、これが私の第2の聖霊体験であったのかもしれません。

後日談があって、民子さんは、「鈴木君が電話をかけてきたよ。きっと、バプテスマを受けたいという電話だったのではないかしら。」と、夫である玉木牧師に伝えていたそうです。

民子さんは、バプテスマの日、第一コリント13章の愛の賛歌と呼ばれる御言葉カードを送ってくださいました。

「愛は寛容で情け深い。愛はねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に背かない。自分の利益を求めず、怒らず、受けた悪を気にしない。不正を喜ばず、真理を喜ぶ。愛はすべてを包み、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてを耐え忍ぶ。」

 この愛とは、アガペーの愛。聖書全体を通じて証しされている神様の愛です。そして、ヨハネ福音書、神の愛、イエス・キリストの愛。

神は、この世に生きるすべての人を愛して下さった。過去、現在、そして、未来の私たちすべての人を。そこには動物も植物も、全被造物、全宇宙も含まれています。

生きとし生けるものが、決して滅びに至ることがないようにと、御子イエス・キリストは、十字架にかかって下さった。ただただ救うために。罪をゆるすために。そして、この神様の救いを信じる者は、ひとりも滅びることなく、永遠の命が約束されている。

この愛とゆるしを知る時、私は今も、こころが高まります。今現在も、私は、愛の薄い人間であること、愛のなき者であることを感じています。それでも、キリストの愛から離れていないことを信じています。少しでも、キリストの愛に応えて、人を愛したい。真実を求めている人、困難を抱えている人に、少しでも手助けしていきたい。こんな私ですが、世界を愛する者でありたい。世界に絶望するのではなく、何とか、より良い世界になるために、祈り続けて行きたい。そして、平和な世界の実現ために、自分にできることを実行していきたいと思います。

まずは自分の足元から。家族、友人、知人から、愛していきましょう。教会を愛しましょう。教会が、ますます福音を証しする教会となるようにと祈りましょう。世界の平和の為に祈りましょう。祈りは、けっして空しい結果に終わることはありません。

神様の愛を信じて、祈り続けて行きましょう。金沢教会のために祈ります。そして、東山教会のためにも祈ります。中部連合の為、全国諸教会の為、さらに、世界の教会の為。そして、人種、国籍、宗教問わず、すべての灯と救いの為に、祈りましょう。

-説教・礼拝報告