5/28(日) ペンテコステ礼拝 説教原稿

2023/06/20

※今回は、録画した説教動画ではなく、説教原稿をアップいたします。

説教題:「わたしはアルファであり、オメガである」(ヨハネの黙示録22章13~21節)

〔はじめに〕

おはようございます。

 今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。ユダヤ教の過ぎ越しの祭りから数えて50日目、刈り入れの祭りにあたるのがペンテコステです。ペンテコステは、キリスト教会においてはどのような意味を持っているのでしょうか。

 過ぎ越しの祭りが、主イエス・キリストが12人の弟子たちと共に食事をされた最後の晩餐にあたります。さらに、十字架の死を迎えられたのも、過ぎ越しの祭り。それから50日目、それが、聖霊なる神様が、鳩のように、あるいは、火のように弟子たちに降り注がれたという聖霊降臨の出来事にあたります。ここから、弟子たちが燃やされて、福音伝道を始めていく。さらに、信仰共同体である教会が生まれて行ったことから、ペンテコステは、教会誕生日とも呼ばれています。

 

〔本文〕

 今日は、聖霊降臨日を記念しての礼拝ですが、長く読み続けてきたヨハネの黙示録を取り上げる最後の回にもあたります。最初に取り上げたのが2022年10月26日、昨年の10月から7か月、黙示録を読み続けてきたことになります。あらためて、このヨハネの黙示録とは、いったいどのような特色を持つ御言葉であったのでしょうか。

 黙示録を取り上げる時に、誰が、いつ、どのようにして記したのか、どこで、そして、どのような内容であるのかということに、何度か触れてきました。

 12弟子のひとりヨハネ、この人は、ボアネルゲスと呼ばれたゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟のヨハネです。雷の子というあだ名を、イエス・キリストから名付けられた人。主イエスに愛された弟子と、自他ともに認める人。さらに、イエスの母マリアを、イエスの十字架の死後、お世話した人でもあります。

 ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙1、2、3と記し、最後、このヨハネの黙示録をパトモス島にて幽閉されている時に記したと言われています。時代は、ローマ皇帝ドミチアヌス帝(81年~96年)の頃。

 7つの教会に宛てて書かれた手紙の形から始まっています。不可思議な幻を目撃したヨハネの記した手紙の形式で始まっているのですが、私は今日、特に皆さんと共に注目して読み進めていきたいのは、12節からのところになります。

 それまで、私は見た、聞いた。まるで、”家政婦は見た”、というように、とにかく見たことを詳細に記録していくヨハネです。その内容に、いっさいの偽りがないことは確かです。

 このヨハネをして、最後の最後、10節以降、ヨハネの姿は、全く見いだせないほどに、主イエスの言葉が、はっきりと語られるようになるのです。12節「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる」。この「わたし」の言葉が以降ずっと続きます。「わたし」、それは、つまりイエス・キリストです。

 イエス様が語られる。直接語られている。最も大切なことを語られている。それは、なにか。終わりの日をもたらす、イエス・キリストが、裁き主として、さらに、慰め主として、弁護者として、すぐに来る。「すぐに」という言葉が、大変心に残るのです。

 キリスト教会が2000年以上にわたり、待ちつづけている出来事。それは、主イエス・キリストが再び来られること。再臨です。主の再臨あるとなにがあるのか。

 裁きと共に、主の救いがもたらされる。信じる者は救われるという言葉にある通り、主イエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じる人には、救いがもたらされる。

 2000年も待っているけれども、それはまだなのか。という方もいらっしゃるでしょう。この終末の遅延について、多くのクリスチャンが考え続けてきました。実は、主イエス・キリストの福音を雄弁につたえた使徒パウロもそうです。

 終末の遅延、それは、神様の前に千年は一日の如く、一日はまた千年の如くあり、遅れているのではない。待っておられるのではないか。

 すべての人々に福音が宣べ伝えられるまで。そして、すべての人々が、神様の前に方向転換して、悔い改めるまで、神様は、私たちのことを待って下さっているのではないか。

 裁きの事も、救いの事も、神様の出来事であって、私たちが分からないことであるかもしれないけれども、「救って下さい」という私たちの祈りに対して、果たして神様は答えて下さるのか。これは、大変切実なことです。

 今日の13節では、「わたしはアルファであり、オメガである」と、イエス様が語られています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と、記すヨハネの福音書の言葉を思い起こさせます。

 無から有を生み出し、混沌(カオス)の暗闇に、秩序と光をもたらす神様が、この世界を作られた時、イエス・キリストは、そこに共におられました。そして、今、世の終わりが近づく時、その終わりをもたらすベく来られるのが、この主イエス・キリストです。

 終わりのしるしのように見える出来事は、いくらでもあります。福音書によれば、偽メシアが現れる。戦争の騒ぎと噂があちこちで聞かれる。飢饉、地震も起こる。偽預言者も多く現れて人々を惑わす。多くの人の愛が冷える。これらの事柄があってもまだ、世の終わりではない(マタイ24:4以下参照)。

 「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は、救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(13,14節)

 やはり、すべての人が福音を耳にし、福音を信じるまで、終わりの時は来ないのではないか。そんな思いが心の中をよぎります。

 さて、私たちが、終わりの時が近づく中で大事なことはなにか。「来て下さい」と待ち望むことではないでしょうか。さらに言えば、待ち望むというのは、決して受け身の姿勢ではなく、かえって、とても積極的な姿勢であることを思わせる言葉に出会います。「渇いている者はくるがよい。いのちの水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」という約束の言葉です。 

 私はすぐにいくつかの御言葉を思いました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

 「疲れている者、重荷を背負って苦労している者は、だれでも私のところに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは、安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイ11:28~30)

 イエス様が私たちに約束してくださるのは、遠い将来の、待ち望み続けなければ決して得られない救いではなく、今、この場で、本当に必要としている人に、すぐにでも与えられるという救いなのです。

 ヨハネの黙示録は、遠い約束を伝えているようで、今、すぐにでも与えられる確かな約束の記録。

 イエス・キリストはおっしゃいます。「しかり、私はすぐに来る」。その約束の言葉に対して、私たちは祈りをもって応えます。「アーメン、主イエスよ、来て下さい」。

 「来て下さい」とは、マラナ・タという言葉です。この祈りの心で、今私たちが過ごしていくこと。そして、困ったらすぐにでも手を差し伸べて助けてくださる神様を信じて、「助けて下さい」と呼ばわることが出来るのであります。神様はなんとありがたいお方でしょうか。”わたし”の救いを与えて下さる神様は、”私たち”の救いをも、約束してくださっています。

 黙示録最後の言葉、それは、新旧約聖書の一番終わりの言葉でもあります。「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」。この言葉を最後に引用して、お話を終えたいと思います。

 「すべての者」とは、いったい誰の事でしょうか。クリスチャンだけを指しているのか。信じる者だけを指しているのか。神を信じる人、仏を信じる人、何らかの宗教を信じる人の事を指しているのか。

 私は30年以上のクリスチャン生活を続けてきた中で、次第に分かってきたことがあります。それは、神様の救いというのは、私たちの想像を超えて広いのだということです。高く、広く、長く、深い神様の愛をもって、神様は、本当にこの世界に生きるすべての人を愛しておられる。そして、すべての人が幸せに生きてほしいのだと、心の底から願っておられる。

 ですから、すべての者とは、全世界に生きるすべての人を指しております。過去・現在・未来に生きるすべての人のことを。国籍、人種、宗教、信条、信念など、ありとあらゆるものを 超えて、すべての人に、神様の恵みと主イエスの救いがありますように願う思いが、この言葉に込められています。神様が誰よりも、強く願っておられるということであります。

 どうが、世界に生きる全ての人々、また、過去・現在・未来に生きるであろうすべての人々に、神様の恵みが今日も共にありますように。アーメン

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