2/23(日) 説教原稿(動画は後日アップ予定)
「人間の心の中を知るイエス」(ヨハネによる福音書2章23~25節)
おはようございます。今日は、2月最後の主日礼拝です。
今日は、「人間の心の中を知るイエス」というテーマで、ヨハネ福音書2章の短い最後の部分をご一緒にお読みしましょう。
このタイトルは、25節「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたからである」という御言葉から採っています。イエス様は全部ご存じであるのだというのは、私の今抱えている心の状況とも重なり、どきりとするのです。
人間の心の内にある様々な思い。良い思い、悪い思い、純粋な心、不純な動機に満ちた心。口から入るものが人を汚すのではなく、口から出て来るもの、つまり、心の内から出てくるもので人を傷つけるのだ、というのは、イエス様がある時、語られた言葉です。
どんなに上手に隠しても、悪意や敵意は必ず明らかになります。一方で、深い悲しみや怒りの情念は、一見すると、明るく、笑顔で、元気いっぱいに見える人であって、見かけに騙されるといいますか、分からない場合もあります。人間とはなんと複雑な存在なのでしょう。心を隠す、心を守る為に、隠す、というか、心を殺すようにして生きなければ、生き抜けないほどに、厳しい世の中を、私たちは生き抜いているからかもしれませんね。
私たちの複雑怪奇な心、自分でも、自分の心に気づけないほどの厄介で、複雑な心を抱える私たち人間の事を、イエス様は、実によく理解しておられた。
「それは、すべての人のことを知っておられ、人間について誰からも証してもらう必要がなかったからである。」(24,25節抜粋)すべての人とは、イエス様の当時の人々はもちろんです。イエス様の周りにいる弟子たちの事はもちろんの事、ガリラヤの地方、そして、今いる、エルサレムの都の人々、神殿で礼拝を捧げに来ている人々、神殿商売人はもちろんのこと。
さらに広く言えば、過去の人々のこと、現在の人々の事、そして、未来に至るすべての人の事を、全部よく理解しておられる、ということ。あなたのこと、わたしのこと。私たちの事まで、すべて含まれます。「イエスは、すべての人間の心を知っておられたからである。」
さて、今日のところには、もう一つドキリとする言葉との出会いがありました。それは、24節の言葉です。「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」という部分です。エルサレムに滞在中のイエス様の言葉と行動に触れて、実際に目の前で起こされる大きな奇跡に触れて、大変多くの人々が、次々と、イエスの名を信じた。というのです。
信じた、というのは、「ピステウオ」という動詞が使われています。名詞形が「ピスティス」信仰という言葉。イエス様の事を信じた人々がいた。それも大勢いた。
ところが、イエス御自身は、彼らを信用されなかった。この信用しなかった、という言葉も、同じ、ピステウオ、信じる、という言葉が使われているのです。
一方の人々は信じ、イエス様は、その信じたという人々の事を信じなかった。信じるとも訳せますが、任せる、という意味にも訳せるのですが、自分の事を任せる、明け渡す、ということは、しなかったというのです。
イエス様は全ての人の事を知っておられるのに、すべての人を信じて下さらなかったのか。すべての人にご自分を明け渡すことをして下さらなかったのか、と、ドキリとするのです。
しかも、これが意味するところは、まさにそれから間もなく、生じる出来事によって明らかになります。2章から、留まることなく、イエス様の福音伝道は続きます。イエス様の教えは公然と語られ、イエス様の癒しの奇跡は、次々と起こされ、しるしが次々に起こされていくのです。
人々はひっきりなしについてくる。従ってくる。弟子となる人々が増えてくる。その矢先の事。6章の中に、「わたしは天から降って来たパンである」という言葉に、多くの人々がつまずく。この中には、弟子たちの多くがイエス様の元を離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。のだと記されているのです。つまずき、離れる人がいる(66節)という現実が起こる。
イエス様はまさに、この出来事を予見しておられた。調子よく、次々従ってくる、信じます、クリスチャンになります、あなたの弟子にして下さいと近づいてくる人々がいて、しかし、何かの出来事に直面すると、「やーめた」、面倒くさいと御もとを去る人々が出てくること。
まさにイエス様は人の心をよくご存じの方。ころころ変わりやすい人の心をよく分かっておられた。私はどこに行くにしても、絶対あなたの元を離れません、と豪語する弟子であっても、怖さゆえに、従いきれない弱さを抱えていることを、だれより深く理解されていたイエス様。その心には、どれほどの孤独と哀しみ。痛みが宿っておられたのだろうか。
「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたからである。」(25節)
イエス様は、すべて、人間の心を理解した上で、私は、この人たちを心底信じることはしない、また、自分を任せることはしない、という思いでいらっしゃるのですが、全部分かった上で、あえて任せる、信じる、という、全く正反対の驚くべき行動に出られたのが、十字架の出来事ではないか。私はそのように考えているのです。
裏切る弟子たち、十字架に付けろつけろと叫ぶ人々を前にして、さらには、父なる神様ですら、この苦しみのただ中で、何もして下さらない、という中で、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」、と叫ぶイエス様。
これが正に、明け渡す、任せる、信頼するという極限の形ではないかと思うのです。神に見捨てられているようで、その神に全身全霊を委ね切って、御自身を神に投げかけていく。十字架に身を任せる。
逃げ去る人や、十字架に付けろと叫ぶ呪いの言葉を聞きながら、その人たちのために祈り続ける。もはや、イエス様は人々を信じていないのではなく、信じるのです。今は裏切っても戻ってくる。今は、自分を殺そうとしているが、いつかは自分の事を信じる人になる。人は変わり得るのだ、と信じておられるのです。
そして、神を信じ、人を信じ、身を任せて下さった。だからこそ、十字架は、すべての人にとって、無関係ではいられないのです。
さて、ここで、脇道にそれたいと思います。
私は、アンパンマンの作者、やなせたかしさんの詩集を最近、よく読んでいます。「てのひらを太陽に」という大きなテーマのうちに、幾つかの過去の詩集からのアンソロジー、ともいうべき詩集です。
その中で「人間なんてさみしいね」という詩がありました。全部は読みませんが、一部抜粋でお読みしましょう。
「人間なんてさみしいね
人間なんておかしいね
とにかくこうして
何となく
諸行無常と生きている
このたよりない存在を
誰かがみとめてくれること
心と心がふれあって
何もいわずにわかること
ただそれだけのよろこびが
人生至上の幸福さ」
全体的には、作者には珍しいようなどことはなしの悲哀、ペーソスが流れているのですが、どこかにきらりと光る希望の声が聞こえても来る。
特に、「このたよりない存在を誰かが認めてくれること 心と心がふれあって 何もいわずにわかること」という部分に、イエス様と出会った人々のうれしさ、喜びが、良く描き出されているような気がする。
イエス様は、私たちの事を分かってくださっている。何も説明しなくても、理解し、受け止めて下さっている。わかってくれている。ありのままに認めて下さっている。
ころころ変わってしまう心を抱えるわたしの事。従いたいのに、従えきれない弱さを抱えるわたしの事。頑なになって、他人なんか信じられるもんか。ニコニコ笑っているけれど、心の中じゃ何を考えているかわからない。他人なんか、信じられるわけないだろう、と考えている私の事も、そのままに受け止めて下さるイエス様がおられる。
こういう方がいらっしゃるのか、いらっしゃらないのかで、世界は大いに変わってきてしまう。イエス様のような、とことんまで人間を理解し、知って下さり、受け止め、赦してくださる方がおられるから、私たちは救われる。どんな状態であっても、私の事を愛し続けて下さる方がいるので、救われるのです。
ああ、イエス様を信じてよかった。ああ、イエス様に出会えて本当に良かったと思える幸せ。これを、私たちクリスチャンは味わっているのではないでしょうか。
最後になりますが、皆さんに祈りのリクエストをしたいと思います。
本日午後、福井教会で、中部地方バプテスト連合の交流会が開催され、翌日、24日の午後から、福井教会の新会堂を記念する献堂式が予定されています。
ここのところ、各地で雪がよく降っています。特にこの3連休は、大雪が予報されており、私は、別の教会のメンバー2名をお乗せして、東海北陸道を通って車で福井に向かう予定にしておりますが、途中の積雪と道路の凍結などで、果たして無事行きつけるのだろうかという若干の懸念を抱きつつ、主にお委ねする以外なし、という信仰の思いでおります。
連合会長として、交流会の責任があり、開会メッセージと、翌日の献堂式での中部連合を代表しての祝辞の責任もあるので、できる限り現地に行きたいという思いはありますが、まさに、主の御心のままに、という思いです。「イエスさまは、すべての人の心の中をよくご存じの方」ですね。どうぞ、神様のご計画、主の御心が成就しますよう、お祈り下さい。