12/14(日) 説教原稿(本日、動画はアップしません)
2025年12月14日(アドヴェント第3) 東山キリスト教会 主日礼拝
「神の愛が」(1ヨハネ4:7~10)
聖書本文
7愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
説教本文
おはようございます。雨がしとしとと降り、何となく肌寒い朝を迎えています。
来週は、クリスマス礼拝を迎えます。本当に日の過ぎるのは早いですね。
今年を象徴する言葉として、熊という言葉が選ばれました。この熊には、中国へ返還されたパンダと頻発する熊の出現・被害の2重の意味が含まれているとのこと。
気象状況の変化に伴い、森での餌不足と、人間のえ付け習慣で人なれしたり、高齢化に伴う山林の手入れが行き届かないことなど、様々な要因が重なってのことのようです。
先週、月曜日には、夜11時15分 青森 八戸沖を震源地とする地震が発生しました。後発地震の恐れがあり、その予報も初めて出されるようになりました。津波に関しては、12日の地震で、津波が発生しました。幸い、2011年3月11日の東日本規模ではなかったことに胸をなでおろしました。なお、余震の恐れありということで、北海道、東北、北関東の地域の方々を覚え、お祈り申し上げます。
不安の多い私たちの生きる世界。数えれば、本当にきりがないほどの不安材料があります。
その中で、数えて見よ主の恵み、ということで、幾つもの神様の恵み、それも、私たちの日常の中で起こされる奇跡、大小さまざまな恵みの数々を、思い起こしていきましょう。
ヨハネの手紙、第一 4章は、これ自体で一つの福音書とも呼べるような内容になっています。小さな聖書とでもいいましょうか。
ヨハネ福音書、ヨハネの手紙、ヨハネの黙示録、3つのヨハネは、伝統的に、ひとりの著者ヨハネの手によるものだとされてきました。
特に、ヨハネ福音書と、ヨハネの手紙の重なる点は、多く上げられます。
皆さんはよくご存じでありましょう、ヤコブとヨハネの兄弟は、ボアネルゲス、雷の子というあだ名をイエス様からつけられたことを。
雷の子、雷が鳴り渡るような、いかずちが地に落ちるような激しさを、ヤコブ、ヨハネが持っていたからこその名前でしょう。ヨハネは、瞬間湯沸かし器的な怒りを爆発させる人であったとすれば、後年、愛の手紙を記し、愛の福音を記した人と別の人格の人であったかと言えば、そうではなく、徐々に変えられていった。
黙示録に至っては、恐ろしい黙示文学でありつつ、やはり、主よ、来て下さい、私たちの世界へ救うためにと祈り続けるような、信仰の人として、成長し続けていた人ではないか。
今日の箇所でも、4章の始めから読むと、実は、ヨハネが所属し、ヨハネが、長老としてリーダーをゆだねられていた教会、あるいは、周辺地域の教会には、様々な問題が発生していたかもしれないと思う内容が記されているのであります。
一言で言うと、霊的な混乱。簡単に言えば、わたしはイエスの弟子ですとか、わたしの教えこそが、わたしの主、イエス・キリストの本当の教えなので、わたしに聴き従ってくださいと、別の教会に足を運んで混乱させるような、自称預言者たちが、何人も出没した。
これはちょうど、コリントの信徒への手紙で、パウロが嘆き、訴え、涙の手紙を記していったような混乱が、ヨハネの教会にもあったからだと言える。
ヨハネは、生まれつきの激しい気性のままに、敵対者を断罪し、偽預言者たちを激しく攻撃し、排除していったのか。教会の中で、そういう嘘の情報に惑わされて、揺らいでしまった人を、この教会から出て行け!と命じたのか。
わたしは、この混乱にある教会で、ヨハネが語って行ったこと。それは、大声ではなく、声高でなく、静かな声で、しかし、切々と、イエス・キリストの姿を物語っていたところから、混乱を鎮める糸口を見いだしていったのだと確信しております。
ヨハネは、この愛をイエス・キリストと共に過ごす中で、特に、十字架の前・後に、多く体験し、この愛を知ることで、徐々に変えられていった人でありましょう。さらに言えば、十字架上の主イエスより、母マリアを託された人でもあり、イエスの母マリアを通して、愛を知る人、愛を学ぶ人として歩んで行ったのではないでしょうか。
神の愛、アガペーこそが、全てを解決する答え。アガペーを体現し、世に来て、私たちを愛し、導いて下さる主イエスの存在にこそ、教会が教会として、正しく歩む道しるべを見い出していった。ですから、高齢になるにつれ、神は愛なり、ということを語り続け、繰り返すあまり、聞いている者にとってはもう分かりました十分ですという思いを与えたほどに、神の愛を証しする人とされていったのではないでしょうか。
イエスは言われる。わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ誰も永遠の命に至ることはできない。
私たちがなすべきこと、それは、イエス・キリストの愛を、確かに頂き、愛する事、赦す事、そして、時には、勇気をもって立ち上がるところ、ここにこそ、本当の教会のあるべき姿がある。そして、この世に対して、私たち教会だけが愛の場所だ、と示すのではなく、神様の愛は、まさに、私とあなた、あなたとあなたの間に、深く根ざし、入り込んで下さり、この世の全てを愛し、救おうと、イエス様が、来て下さった。十字架にかかって下さった。私たちの抱える罪を赦し、新しい命に生きるようにして下さった。
だから今の命は、神様の愛に包まれた新しい命。特別な使命を帯びた、すばらしい人生を、歩ませて頂いている。
神を見た人はいなくても、神様の愛を感じることはできる。イエス・キリストを通して。イエス・キリストを信じる私たちを通して、神様の愛は、流れ出ていくもの。
だから、互いに愛し合いましょう。愛のあるところに、イエス・キリストの愛はある。神の愛はある。「愛あるところに 神まします」のお話を最後にして終わりたいと思います。
皆さんは、靴屋のマルチンという本を読んだことがおありでしょうか。紙芝居、絵本、その他のものを読んだ、聞いた、見たという方はいらっしゃることでしょう。
この本のもともとのタイトルは、「愛のあるところに 神はまします」です。靴屋のマルトゥイン・アフジェーイッチという人は、窓がひとつしかない、地下室の小さな部屋に住んでいた。ここから、お話は始まっていきます。
困っている人、悲しんでいる人がいた、その人のために、自分の持っている者を差し出す。簡単なことではありません。しかし、彼はそれをした。
なぜか、それは、今日、わたしはあなたのところに行くという約束を聞いたから。
妻を亡くし、子どももおらず、高齢の彼は、一人ぼっちでした。聖書を読む人祈る人ではありました。正確に言えば、昔はしていた。しかし、妻を亡くし、息子を亡くし、8年。何も良い事などない。という中で、お友達のお年寄りから、聖書を勧められたのです。
聖書を読み、それこそむさぼるように読んで疲れてうたたねをしていたら、「マルトゥイン」と呼びかける声を聞いた。「明日、あなたのところに行くから」との言葉でした。
その後の展開は、ぜひ、本をお読みください。(ご存じの方も多いことでしょう。)
愛あるところ神まします。つまり、私たちが互いに愛し合い、赦し合うそのところに、神の愛はある。そして、神様ご自身がおられる。最後の晩餐の主イエスが、足を洗い合い、赦し合うようにと命じられた言葉に生きることが、私たちにたいせつなこと。愛するとは赦すこと。十字架と復活の主イエスに倣うことで、愛を私たちは証しし、伝える者とされていくのであります。
それでは、祈りをささげましょう。