4/11 週報巻頭言より

『説教のデザイン』            No.91

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。

腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。

そこで、イエスは口を開き、教えられた。

(マタイ5章1,2節)

 先週は、イースター(復活祭)を覚え、礼拝をささげ、共に主の晩餐にあずかることが出来ました。とても恵まれたひとときでした。改めて、私は神様の御言葉に聞き、その御言葉に生かされる恵みを会衆の皆さんと体験する喜びを味わいました。神様の御言葉を毎週とりつぐ中で、自分の未熟さ、弱さ、器の小ささに悩むこともあります。弱さの只中に、主イエスが共に苦しみうめき、聖霊のとりなしにより、語る言葉が与えられていきます。それが“強いられた恵み”と言いますか、説教者のだいご味なのかもしれません。「世界説教・説教学事典」の中に、グラディー・ヘンリ・デイヴィスという20世紀の神学者でシカゴ・ルーテル神学校の教授の言葉が紹介されていました。「説教のデザイン:説教は一本の木のようでなければならない。それは生きている有機体であるべきである。(中略)夜の羊の避難所のように信頼して、雨のような憐みをもって。」長文のごく一部ですが、説教とは、一本の木。枝葉も幹もしっかりとつながり、土(現実)に根差し、実りをもたらす木。イエス様につながり、み言葉を慕い求め、教会の益となり、社会に光を届ける説教。そうありたいと願います。

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