「何事にも時がある」コヘレトに学ぶ人生の意義

6月も終わりに近づいています。今月、皆様はどんなひと月を過ごされたでしょうか。
思い返すと、大阪北部地震の発生があり、改めて自然の荒々しい息吹といいますか、厳しさを思わされております。
また、ロシアで行われているサッカーワールドカップのニュースに、にわかサッカーファンとなる自分がいて、選手の好プレーに高揚感を覚え、躍動するプレーに一喜一憂する自分がいます。

北朝鮮と米国の首脳会談が行われたことも記憶に残っています。その結果はどうか。これからどうなるのか。日本を含めた拉致被害の人々は帰国することが出来るのか。切なる願いを抱く家族の方々の思いに、少しでも心を寄せたいと思っています。
事件や事故が起こるたびに、痛ましさに心が震えます。それが繰り返すと、心が鈍感になるような部分もあり、そういう鈍くなった感覚の自分に時に戦慄を覚えることがあります。
所詮、自分には関係ない。自分の身近のことではないから・・・。と、冷めた思いがあるからかもしれません。怖いですね。

さて、いろいろ心に思いつくまま言葉を連ねましたが、旧約聖書の知恵文学の一つ、コヘレトの言葉を、しばらく前から教会の祈祷会で学んでいます。
コヘレトは、集める人という意味があり、格言集を集める人、もしくは、集会を行う人という意味も含まれ、昔から伝道の言葉、伝道者の書とされてきました。
また、コヘレトとは、ソロモン王の別の名とも考えられます。
このコヘレトが、3章のところでこう語ります。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3・1)
この時とは、一瞬の時である瞬間というよりも、季節や時期といった一定の期間を指す時と考えられています。ですから、何事にもそれが起こるにふさわしい時期、季節があり、また、タイミングがあるのだというのが、この言葉の意味ではないかと考えられています。
さらにコヘレトは、「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(3・11 新改訳)とも語ります。

私たちが、私たちの人生の中で経験する様々な出来事のすべてを、ありのままに感謝し、美しいものであるととらえられるかといえば、決してそんなことはないでしょうが、それでも、一つの経験が、後から振り返れば、かけがえのないもの、役に立つものだったということは確かにあります。また、その痛み、苦しみの経験が、今の自分を形作る貴重な体験になることは、確かにあるとも思います。

6月、私たちが経験した一つ一つの出来事、また、出会いを得た一つ一つの出会い。これらを後から振り返れば、それがどんな意味を持つようになるのでしょうか。何一つ無駄のない、意味のあるものであるならば、どんなにうれしいでしょうか。
そうであってほしい、と願います。

今日も、またこれから迎える新しい月も、皆様にとって喜ばしい、意義深い日々でありますように。
牧師 鈴木直哉

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